1674年(延宝2年、徳川4代将軍家綱の時代)
前の年は干ばつ、当年は多摩川の氾濫で農民たちの暮しは
とても苦しくなりました
領主の木原氏に年貢米を減らしてもらうように
お願いしましたが領主も将軍の狩りの為のお金が必要で、
逆にふやさざるをえませんでした
村役人で名主の酒井権左衛門、年寄の鈴木大炊助、
平林十郎左衛門、間宮新五郎、酒井善四郎、間宮太郎左衛門の
6人の農民は延宝5年正月に将軍家綱が上野寛覚寺に参拝する道で
直訴する計画をたて、12月26日の夜中
熊野神社に集合しました
江戸まで出向きましたが領主の役人に捕えられ
木原家江戸屋敷で処罰されました
しかし、この命をかけた行いによって領主は年貢を軽くし、
農民たちはなんとか飢えをしのぐことができました
ただし、罪人として処罰されたので、他の農民は
かくれて、供養するしかありませんでした