大森貝塚の発見


明治10年 (1877)6月、エドワード・シルベスター・モース
横浜から東京に向かう汽車の窓から外を眺めていました。
汽車が大森駅を出てまもなく左側の丘の上の斜面に、
まるで雪がつもったような白いものがみえました。
「あれは貝塚だ!」
アメリカで貝や貝塚の研究をしてきたモースは、
一目でそれが貝塚であることがわかりました。
貝塚とは、大昔にすんでいた人間が、貝を食べて、
その殻を捨てた場所のことです。


上:当時を再現した模型(右手前に博士が見えます)

明治10年(1877)9月16日、日曜日
モースは助手の松村任三や学生の松浦佐用彦佐々木忠次郎を連れて
大森貝塚を訪れました。
そのころ、日本には貝塚に興味を持つ外国人がいたので、
先に掘られてしまわないかずっと心配していたのです。
9月になって、ようやく発掘の許可がおりました。
モースたちは大森駅から貝塚までを線路沿いに歩いていき、
貝塚に着くと、白い貝殻の斜面にかけより、
「おお、ハイガイだ、ハマグリ、アサリ、シオフキもある」
貝の研究が専門のモースは、宝物の山でも見つけたように目を輝かせました。
このひはシャベルやつるはしを使うことは許されなかったので、
小さなかごを2つ持っていっただけで、手で掘っただけでしたが、
めずらしい形のたくさんの土器や細工をほどこした動物の骨を3つ、
ふしぎな模様のついた粘土板をとることができました。

翌、9月18日(19日?)に二回目の発掘が行われました。
今度はくわや移植ごてで掘り、たくさんの土器の破片や完全なかめ、
動物の角で作られた角器や骨で作った骨器、
模様のついた板、土版などが発見しました。

10月9日には三回目の発掘がおこなわれました。
この発掘は大学教授や文部省の人達が加わる本格的なものでした。
モースは11月いったんアメリカに帰国しましたが、発掘はモースの指導した助手や
学生たちによって続けられました。
貝塚のの発掘の様子をイギリスの科学雑誌(ネイチャー)に報告し、
明治12年日本で初めての発掘調査報告書『大森貝塚』としてまとめました。